現実逃避にならないスピリチュアル世界の歩き方とは?

現実逃避にならないスピリチュアル

この記事は「ブログ」というカテゴリーに属しており、情報として簡潔したものをお届けするものではありません。

当サイト運営者であるエルクが、サイト運営の備忘録として、精神世界をあれこれ模索する中で思った事を書き綴っておくものです。

そのため、支離滅裂で結論を伴わない微妙な内容になる可能性があることをあらかじめお伝えしておきます。m(_)m

スピリチュアルの世界を探求するということは、まさしく精神世界を旅することであり、

そこから得られるものは非常に大きい。

しかし、

「所詮は似非科学の戯言で、根拠のない迷信に過ぎず、そんなことを探求している時間があったら生産性のある事に時間を費やすべきである。」

という声があるのもまた事実。

そういった世間の声を見聞きしていると、

どうやらこのスピリチュアルの世界の中に、自分が求めている答えの鍵がありそうだぞ、

と直感的には感じているものの、左脳からは「それは現実逃避なんじゃないの?」というささやきがひっきりなしに聞こえてくる。

スピリチュアルは、現実逃避なのだろうか。
スピリチュアルの世界を探求することは時間の無駄なのだろうか。

この問題に対する私の答えは、「精神世界の旅は誰もが取り組むべきであり、時間の無駄などではない。ただし、歩き方を間違えると『現実逃避』と揶揄されても仕方がないほどに本末転倒な事態になってしまうのも事実。」

というものだ。

この記事では、このスピリチュアルは現実逃避か否かという問題に取り組み、
現実逃避になる本末転倒なスピリチュアルの歩き方と、現実逃避にはならないスピリチュアルの歩き方とを紹介できたらと思う。

そもそも現実逃避とは何か

そもそも現実逃避とは何か。

人は、何をもって「現実逃避」という言葉を使うのだろうか。

現実逃避という単語を分解してみると、「現実」と「逃避」になる。
このことからも、現実逃避という言葉を使うときに人が一般的に意味したいことは、

  • 現実感のないこと
  • 実生活に根ざせていないこと
  • 事実ではなく妄想にすぎないこと

という事柄を言いたいのであろう。

つまり、スピリチュアル世界を探求することが現実逃避であると揶揄させるとき、

それはスピリチュアル世界の探求行為と、現実生活との関わりが希薄であるか皆無であること、

また現実生活上での一般的事実と照らし合わせた時に、精神世界で言い表されることが当てはまらないことが暗に示されているのである。

それは現実とスピリチュアルとの接点が見えていないだけ?

ここで一つの疑問が出てくる。

つまり、スピリチュアルを現実逃避と結びつけることは、すなわちスピリチュアルと現実生活との接点を見いだせていないという事なのだ。

なにも、文字通り現実逃避をしているわけではなく、
単にそのように指摘する人間がスピリチュアルと現実生活との接触点に関して無知なのではないか。

という訳だ。

もしも、この反論が的を得ているのであれば、

スピリチュアルが現実逃避であるという意見は、たんなる無知からくる浅はかな意見であり、一切相手にする必要のない戯言に過ぎないと無視することもできるだろう。

しかし、私がこの記事を通じて言いたい事はそういう事ではなく、

実際問題としてスピリチュアルが現実逃避になっている時がある、またなり得るという観点である。

スピリチュアルが現実逃避になる時

現実逃避になるスピリチュアル

スピリチュアルを現実逃避と一緒くたに括ってしまうのは誤りであるが、
それと同時に、スピリチュアルは現実逃避ではないと断言してしまうのもまた誤りである。

それはどういうことかというと、スピリチュアル世界の探求は理性のコントロール下にある限りにおいて、それは実生活との関連も見いだせまた有意義なエッセンスをもたらしてくれるものであるが、

理性の支配から離れ、いわば直感至上主義のような状態になってしまうと、もはやそこには現実感は伴っておらず、現実逃避と言われても仕方がない状態になる。

それでは一体どのようなときに、スピリチュアルが現実逃避になってしまうのだろうか。

実際の具体例を通じて、現実逃避になっているスピリチュアルの例を紹介する。

引き寄せの法則と現実逃避

まず非常によく散見されるのが、「引き寄せの法則」の過剰解釈によって物理法則を無視した極端な思想を持つようになるというものだ。

引き寄せの法則とは、「ザ・シークレット」という映画によって世界的にも一躍その名とノウハウが知れ渡ったわけだが、

実は引き寄せの法則が意味するところの法則は紀元前から既に明らかにされ一部の支配層や宗教家、また精神世界の導師によって語り継がれてきている、宇宙の法則である。

それは端的に言うと、万物はその波動エネルギーと類似のものを引き寄せるということ。そして精神活動の産物である思考にももちろん波動は発生しており、その思考によって生み出された波動と類似したものが現実化され引き寄せられてくるというものである。

もちろん、この説明はかなり省略したものであり、引き寄せの法則のごく一部にしか触れていない。

しかし、こうした引き寄せの法則への部分的な理解を拡大解釈して、

あたかも自分が万物の創造主同様の能力を有しており、

目を瞑って、莫大な金銭をイメージしさえすれば、明日にでも「何か不思議な力」で自分の目の前にそれは現れる。

というような考えを堂々と宣言し信じ込んでしまうのである。

上記の例はまだ自己完結している願望であるので良いほうで、質が悪くなると他人を操作する願望にまで手を出しはじめてしまう。

ここまでくると、もはや現実逃避と揶揄されても仕方がない。

しかし、引き寄せの法則と現実逃避に関して言うならば、
それは引き寄せの法則への理解不足が単なる原因であるので、

勤勉に引き寄せの法則に関する書籍を入り口に、過去の偉人の教えをさかのぼっていけば自然と現実逃避ではなくなるだろう。

占いと現実逃避

次に起こるスピリチュアルと現実逃避の関係は占いに関するものだ。

これは、占い結果や占い師への過度な依存によって現れてくる現実逃避である。

なにも私は占いを否定しているわけではない。むしろ、占いには文字通り真実性があり、無視できない事実が提示されうるものであると認識している。

しかし、占いそれ自体や、占い師に対して、過剰な依存をし、
今日家を出るかどうかまでを占いの結果に頼るのは、

もはや人間としての尊厳の放棄であり、自由意志をもってうまれた人間の本来の在り方とは外れていると言うしかないだろう。

占い行為に対する深い研究と洞察を持たないうちは、

占いをあくまでも「心のマッサージ」程度にとらえておくのがほどよい。

修行行為と現実逃避

そしてスピリチュアル世界に迷い込んだ結果、偏った結論に至り、過度な禁欲主義、過度な制限行為を自らに課す人がいる。

もちろん、精神世界の探求の一環として、また人生の探求として悟りに至る気づきを得るために、修行と言われる行為に身を投じることを否定しているわけではない。

ただし、理性による自己の客観視が出来なくなっているがために、

修行行為が、いわば自殺行為となんら変わりのないものになる可能性がある。

そうなってしまえば、現実逃避を通り越してもはや本末転倒である。

現実逃避にならないスピリチュアル世界の歩き方とは

精神世界の歩き方

それでは一体、どのような姿勢でスピリチュアルの世界に臨めば良いのであろうか。

なお、今から執筆する私なりの考えは、あくまでもスピリチュアル世界との関わり方に悩む方を対象にしたものであり、

すでに、現実逃避うんぬんの議論をする余地もなく、

スピリチュアルの探求へと人生をかけている、もしくはそこになんらかの真実を見出そうと取り組んでいる方には当てはまらないことは、先に述べておく。

実践哲学としてスピリチュアルの教えを採用する

まずあり得る好ましい姿勢として挙げられるのは、スピリチュアル世界の探求を通じて学んだことを、

実生活に何らかの形で適用可能なレベルにまで落とし込み、

実践可能なノウハウとして自分の中に蓄積していくという姿勢である。

このことを、私はスピリチュアル世界での知識を実践哲学に還元すると呼んでいる。

この姿勢でいる限り、いくらスピリチュアル世界にのめり込んで行こうとも、実生活に基づく理性のコントロールを失わずに済む。

これは、今自分が一体全体どこにいるのか分からなくなりがちな、混沌かつ無限とも思えるほどに広がるスピリチュアルな領域にいつつも、

腰に巻いたロープを、理性的に判別可能な現実世界にくくりつけた上での探検であるので、

混乱し始めたり、一旦休憩したくなったらいつでもそのロープをたどって現実感覚を取り戻す事が出来る。

プラシーボ効果の恩恵を肯定する

次に、スピリチュアル世界の探求を通じて獲得したある種の精神的ノウハウによる恩恵をプラシーボ効果として肯定するという姿勢である。

科学的な実証可能性のないノウハウであっても、当人が確かにそこに実際的なメリットを感じることが出来るのであれば、

それでいいじゃないか、という姿勢である。

つまり、そこに科学的根拠は無いのだけれども、効果が認められるからスピリチュアル世界の知識を採用しているという観点である。

これは、現実逃避化したスピリチュアルが、もはや科学的視点を放棄、もしくは他宗教に過ぎないと別枠に捉える傾向にあるのに対して、

科学的根拠は無いのだけれども、という視点があることで一応のところで現実的な感覚を見失っていないと理解することが出来るはずである。

人生を見つめる壁打ち相手として

現実逃避化するスピリチュアル世界の探求は、相応にして主観的な自己に埋没していく傾向にある。

つまり、「私」という観察主体が自分の中からいなくなり、「私は〇〇」という表現主体が自分の中を全て占めてしまうことになり、

結果として見聞きするスピリチュアルな話に1から10まで翻弄されるか、考えが合わない場合は激高して怒り狂ったりする。

それに対して、自分の人生についてあれこれ考えるための壁打ち相手として、スピリチュアルな教えを求める事は、

自分の人生というものを、スピリチュアル知識という道具を使って観察する行為である。

このように、観察主体である限り、スピリチュアルな探求が自分を見失う現実逃避にはなり得ないはずである。

研究対象としてのスピリチュアル

そして、もう一つ、

研究対象としてのスピリチュアル世界の探求も良いだろう。

研究対象である限り、のめり込んで抜け出せなくなることは、可能性としては低いだろう。

もちろん、スピリチュアルな教えや、先人が語る超自然的な現象を実際に体験するために、

あえて一切の現実的な感覚を放棄することは、研究者であるのなら誰しもがトライすることであるが、

それでも理性のコントロール一切を失い続けるということにはならないだろう。

まとめ

以上いかがだったであろうか。過去に、私もスピリチュアル世界にのめり込んでいく中で、一体全体この現実世界が全て幻のように感じられ、方向感覚を失いそうになり、混乱しそうになった。スピリチュアルな教えは、極論を語っていることが多く、極論を極論として見抜けない限りは、私たち人間が生きる世界において絶対的な条件を、高次の視点を持ち出し簡単に相対化してしまいかねない。人間である以上は、文字通り人間であることを正しく認めなくてはいけない。

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